お母さんを複雑な表情で思い出している娘の画像とテキスト:共依存 解決じゃなく「落とし所」

共依存・母娘関係が迎えた予想外の末路【体験談】

離れようとしても、なかなか一筋縄ではいかない共依存。

プライバシーまで
立ち入ってこられるのは、本当につらい。

お母さんが「あなたのためを思って」
と言ってくるなら尚更、伝え方も難しいものです。

本記事は
「色々あったけど、ここらが落とし所」
という段階に来ている私の体験談です。

母→私:過干渉
私→母:頼りすぎ、心配させようとする。母の意見を聞かないと行動できない

といった共依存関係がどう変わったかをお話します。

家族は本当に十人十色。

あなたが最終的にお母さんとどういう関わりをするようになるか。
それは誰にも分からないし、正解もありません。

でも、今深刻に悩んでいるあなたにとって

「最終的にはこうなる人もいるんだ」

と少しでも参考になれば幸いです。

【参考記事】
共依存を抜け出していく途中の様子
≫母娘間の共依存から抜け出す時に起きたこと。こう対処した【体験談】

今でも母娘間で一定の距離を保ちながら、適度な関わりをしている

母とは、今でも物心両面で距離を保っています。

物理的には、京都の実家から2時間程度かかる神戸に住んでいます。

精神的には離婚をきっかけに自立。

  • 母が立ち入ってきそうだと感じたら、距離を空ける
  • 心配させたり、嫌なことを言われそうなことを話さない
  • 相容れない意見は聞き流す
  • 同年代以上の一般的な人の親子関係なのか観察して、目安にする

ひとつずつ解説します。

母が立ち入ってきそうだと感じたら、距離を空ける

私はパーソナルスペースが広めなので、直感的に「近いな」と感じたら距離を空けるようにしています。

具体的にはLINEのやりとりを終わらせたり、「用事があるから」と電話を切り上げたり。

「それができないんだよ…」という人も多いと思います。
私もそうでしたし、今も振り切れないことがあります。

でも、自分の感覚や気持ちを大切にしています。

心配させたり、嫌なことを言われそうなことを話さない

元々、母との境界線が曖昧。
聞かれたことを何でも馬鹿正直に答えてしまうんです。

例えば、最近マッチングアプリで知り合った彼と婚約したのですが。

  • 新しく入る保険のこと
  • 彼の収入・社会保険や年金がどうなってるか
  • 生活のこと

…と言ったことを根掘り葉掘り聞かれ、答えてしまい…

そして「考えが甘い、あなたは贅沢をしすぎ。母さんはもっと色々我慢している(あなたもしなさい)」と言われました。

自分でも後で「わざわざ、嫌なことを言われそうなことを言わなきゃいいのに」とウンザリ。その場で「どこまで何を話すか」が判断できないんですよね、いまだに。

適当にごまかしたりぼやかしたりして、話さないことを心がけていくつもりです。

相容れない意見は聞き流す

これは、先ほどの「心配させたり、嫌なことを言われそうなことを言わない」と同じくらい、大切です。

当然ですが、親子でも考えが違うのが当たり前。
生きてきた時代も全然違いますしね。

母と話していても「そういうことを言っているんじゃないんだよ…」ってことがよくあります。

そういう相容れない意見を、以前は聞き流すことができずに落ち込んでいました。

でも、ずいぶんスルースキルが身についてきました。

「はい」「ちゃんとします」と全て聞き入れ、黙々淡々と自分の思った通りにするようにしてます。

同年代以上の一般的な人の親子関係なのか観察して、目安にする

これは、彼と知り合って重要性を再確認したことです。

彼は私よりひとまわり年上。
家族とは連絡を取っておらず、結婚の挨拶も行かなくていいと言っています。

そんなものかもしれない、と思うんですよね。

(ちなみにそれを私の母に話したところ、釘を刺すような口調で「うちには(挨拶に)来ないとダメだからね」と言われた)

私は今アラフィフ。

同じ年代以上の人から親の話を聞くと、もっと「親子関係が遠くて薄い(親離れ、子離れができている)感じがします。

そういう「一般的な親子関係」を、境界が危うくなったときに思い出すようにしています。

母の存在がノーストレスになってきたきっかけは自己愛を経た恋愛

とはいえ、最近だんだんと、あんなに負担だった母の存在がノーストレスになってきました。

「怒られたり、嫌なことを言われるからこちらから連絡はしない」と割り切れるようになったんです。

そのきっかけは、自己愛(自分を大切にすること)を経て、全力で愛してくれるパートナーに出会ったことでした。

以前は、母が私の領域を侵食してくることがしょっちゅうでした。

その度に憂鬱になり、エネルギーをごっそり奪われてぐったり。

でも7−8年かけて自分を大切にすることを通して
「母のことも自分次第。
楽しく過ごしてたら気にならないはず」と思えるようになりました。

そして母を含めた他者との間の境界がはっきりしていきました。

その後、マッチングアプリで尊敬できる男性に出会い…

彼と惜しみない愛を交換しつつ、
早々に始まった同棲生活を必死でこなしていると、
母に対して感じていたストレスも忘れられます。
精神的に1人の人間として自立できてきたかな、と思います。

長い道のりだったけれど、我ながらがんばりました…!

三世代の機能不全家族

陽子家は下図のような三世代家族。

陽子家家系図と相関図です。

若かりし頃の祖父は大工やトラック運転手。
筋肉ムキムキで気性も荒く、家族に暴力を振るうことも。

祖母は外で働くのが好きで有能でした。
でも家事は苦手。家のことは、長女である母に頼りきりでした。

独身の頃の母は、長女というよりは長男のよう。
高圧的な祖父と激しく対立、祖母や叔母(妹)たちを守る役割をしていました。

結婚後、母は専業主婦に。
祖父母は父が気に入らず、つらくあたりました。

そんな父と祖父母の間で板挟みになる上に、ワンオペ家事・育児。

育児に疲れたお母さんの写真

今でも母は「当時は本当にしんどかった」と言います。

当時の母は完璧で強い女性でした。
私にとって、鬼みたいに大きくて怖い存在でしたね〜…

私はというと、小さい頃から内気で外に出るのが嫌い。
家でひとり遊びするのが好きでした。

母とは、一体化してるかのような依存関係。
思春期に芽生えるはずの自我は30代になるまで眠ったまま。
何かにつけて母の意見を聞かないと行動できませんでした。

「そこまで立ち入るなんて」と驚くような干渉もありましたが…されるがまま…

元から繊細さが顕著でした。
でも、当時は感情も感じる力も鈍かったです。

そうしていたから、大人になるまで精神が持ちこたえたのでしょう。

精神疾患と自我の芽生え…そして7年にもわたる失踪の末に

ところが…!
結婚後(20代後半)、重度のうつ病や婦人科系など次々に病気になったことが大転機になりました。

うつ病が寛解してくる段階で、20年遅れで自我が出てきたのです…!

固く眠ったままだった種の殻を突き破り、猛烈な勢いで「私」が出てきた。

この時期に、はっきりと視界の鮮やかさが変わりました。
モノトーンに近い色から超極彩色に変わって、しばらくは目がくらむような思いでした。

大爆発のイメージ

そして、凄まじい葛藤が始まりました。

  • 自分の女性という性への嫌悪感(思春期に経験するはずだった?)
  • 「もう、絶対に思い通りにならねぇぇぇ!!!」と母を激しく拒絶→実家近くに借りていた京都の家から無断で大阪へ引越し
  • 実家と完全な音信不通になる

…といったことがあり、実家には7年もの間、帰りませんでした。

家族と再び向き合い始めたきっかけは離婚

大阪へ引越した後、しばらくして夫婦別居に突入。
岡山や大阪、奈良…色んな所を点々としました。

当初は「故郷も家族も忘れたい、全部捨ててやる!!」とイキがって出て行きました。
でもまぁ、やっぱり忘れられず(笑)

他の土地に行ってごはんを食べれば、京都の味を思い出す。
いつしか楽しかった家族の思い出ばかり浮かんでくるようになりました…

泣きながらごはんを食べる女性のイラスト

知り合いもいない土地で過ごした孤独な日々。
確かに、離婚して1人で暮らしていくのに必要な精神的自立は進みました。

一方「人って、一人で生きるのは無理なんだ」と全身全霊で納得もしましたね…

やがて、私の頭の中には、静かにシンプルな3文字が浮かびました。

……「帰ろう」……

自然にそう思いました。

そして、勇気を出して両親に電話をしました。
無断で京都から引っ越してから、10年近く経っていました。

長年の「辛く寂しかった気持ち」を成仏させるために気持ちをぶつけた

両親と再会し、これまで音信不通だったことを謝った後

「お母さんが、私を思い通りにしようとしたのが本当に嫌だった」
「なぜもっとほめてくれなかったの??」
「お父さんには、もっと大事なことを相談に乗ってほしかったのに(いつも病気だったり、家にいなかった)」

といった、本音を何回かに分けてぶつけました。

話しながら、涙と鼻水が出るわ出るわ。
あっという間にティッシュの山ができました。

「人ってのは、心からの本音を話すとこうなるのか」と(笑)

ティッシュのゴミ山の画像

両親がどういう反応をしようと関係なかったんです。

「両親を責めてやる!謝って欲しい!」というのではなく

「子どものころからずっと寂しく辛かった自分の思いを成仏させたい」

という一心でした。

「自分が生まれたことなんか、誰も喜んでない」
「誰にも愛されてない」

こういった気持ちは、勇気を出して気持ちをぶつけたことで消えていきました。

全てを伝えられたわけじゃないけど、やってよかったです。

また、それ以来両親も変わっていきました。
彼らもまた、私に対する深い後悔や絶望感から解放されたように見えました。

老夫婦のイラスト

母の昔の口グセは「あんたのことは信用できない!!!」だったのに…
「あんたなら大丈夫。うまくやってね」と言うようになったんですよ。驚きました。

「重たいエネルギーを感じる種類の心配」をしてこなくなったんですよね。
軽快で健全な関係になってきたと思う。

2021年頃からは、一段と安心したようでした。
私が離婚して生活保護になり、経済的な心配がいらなくなったからです。

同じ時期に発達障害と診断されたことも大きかった。
長年の「なぜこの子は〇〇できないの??」が解消したそうです。

両親は以前より健康になり、趣味を楽しんでいます。

祖父母が生きていた頃には鬼みたいに怖かった母。
今では適度に忘れっぽくて、いつもニコニコしているおばあちゃんになりました(笑)

母娘それぞれの答えがある

冒頭にも書いたけれど、母娘問題に関してはそれぞれの答えがあると思っています。

何がいい、何がダメとも言えません。
自分の気持ちを親に言えたとしても反応もそれぞれです。

ハテナの画像

私がこれまで聞いた中には、母がブチ切れたり泣く「だめだこりゃ」なパターンも結構ありました。

そもそも「解決」などというほど単純な問題じゃないんですよね。

私には、自分の体験談を一例として話すくらいしかできません。
そこで最後に、共依存をはじめとする家族問題のエキスパート・信田さよ子さんの言葉をお届けして締めくくります。

本来娘は--というより子供はすべて--親に負い目を感じる必要などありません。

無事に生まれ、親に子育ての楽しみを与えただけで親孝行は完了しています。
あなたの親孝行は、もうすでに済んでいます。

逃げたい娘 諦めない母』(信田さよ子 朝倉真弓著/幻冬社)より

お互い、焦らずに「誰のものでもない自分の人生」を生きられるようになっていきましょう。