いやー母娘関係なかなかひと筋縄ではいかない。
終わったと思っても、まだまだ。
私が母娘関係に悩むとき、いつもバイブルにしている『逃げたい娘 諦めない母(幻冬舎)(朝倉真弓、信田さよ子著)』。
本文中に、こんな記述があります。
どんな親も、微毒を含んでいるものです。美しいバラには棘があるように、うるわしい母の間には、必ずわずかな毒が含まれているものです。しかしそれが猛毒になると、子供の存在を呑み込んだり、押しつぶしてしまいかねません。必要以上に連鎖を恐れることは、不自然なまでに毒を否定することになり、かえって危険です。微毒は当たり前、と捉えることで私たちはかろうじて猛毒になることを免れる、そう考えています。
正直言って、このことに心底納得してる状況です。
今回は、共依存を抜け出して一定の距離感ができた後の話。
最近直面した罪悪感についてシェアします。
- 共依存を今、克服しようとお母さんとの距離を模索しているかた
- 適度な距離感はわかってきたけど、まだまだ何かと不安なかた
上記のようなかたに、心の休憩がてら読んでいただけたら。
まぁ、、ほんとに「みんな、気長に行きましょうね」という思いを込めて(笑)
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距離感が定まった後は、穏やかな年月だった
距離感が一定落ち着いた後。
母娘間、そして家族全体の雰囲気は、だんだん穏やかな感じになりました。
私がうつ病とか実家との断絶とか色々あった間、兄とも疎遠になってしまっていました。
何せ、家族も故郷も全部忘れ去るつもりだったので。
でも、実家に帰れるようになった後、たまにですが両親と兄と4人で過ごす時間もでき始めました。
楽しかったです。
母は前みたいに干渉してこないし。
みんなそれほどお互いに気遣いしすぎることもなく。
兄の家族(義理の姉、甥)とも父の誕生祝いの時に一緒に出かけて食事をしました。
そういうとき、母はすんなり輪に入れるように気遣ってくれます。
小さいとき、私は甘えない子どもでして。
大人である今になって、子どもみたいに甘えたりはできないとはいえ…
それでも、昔の確執が嘘みたいに、自然に頼ったり頼られたり。
会ったりすると、安らぎを感じられるようにもなっていました。
久しぶりの罪悪感に悩まされた。出した結論は…
7月22日のツイートです。
母がやけどしたとの知らせ。もう自分の家族や葛藤について概ね納得でき、両親や自分が年取ったときのことも考え、今年中には実家近くに引越すと決めたばかり。うーんやっぱりその選択は間違ってなさそうだなと思いました…近くなら、すぐ家事とかしに行けますからね〜そういうのだけでも心強いもの。
— 橋本陽子@直感力と自分軸を育てるチャネリング (@yoko_spmsg) July 22, 2023
このことで、久しぶりに私の中に大きな罪悪感が生まれました。
「娘なのに、お母さんの世話をしに行けない自分は…」
と思ったんです。
家が近かったら、家事などを代わりにしに行っていたでしょう。
でも、今住んでいるのは、明石海峡大橋にほど近い場所。
京都の実家までは早くて2時間超です。
また、気温が大阪・京都よりも最大5℃は低い。
かなり涼しい気候なんですね。
私は自律神経が弱く、気候の変化で体調をすぐに崩すので、この街に移ってきた…という経緯があります。
それでも今年の夏は、室内でも熱中症になったり、買い物行くだけでひと苦労。
最近はなりを潜めていたパニックも時々起きます。
途中には大阪駅など、人混みの激しい場所もある。
この暑さの中、実家に行くのはちょっと心配なんですよね。
正直いうと、今やっている「1日1万文字書く」という挑戦に向かっているスピードと勢いも緩めたくない。
「行けない」というより「行きたくない」と思いました。
そして、そんな自分を責めてしまう羽目に。
母は足を火傷したので、あまり動けない。
代わりに近くに住んでいる親戚が助けてくれているようです。
病院に連れて行ってくれたり、日常の買い物をしてくれたり。
「高齢なのに、申し訳ない…電話の1本くらい入れないと」と思いつつ。
さまざま事情があってどーうしても気が重く、それもできず。
日を追うごとに罪悪感が膨れ上がっていきました。
母がときどきする、こんな内容の昔話がありまして。
「母さんが入院したり病気しても、一緒に住んでた家族は誰も世話してくれなかった。お見舞いにもきてくれない。お見舞いに来てくれるのは、〇〇ちゃん(私のいとこ)たちだけ。家族たくさんいたのに、何もしてくれない。何で私だけこんなに寂しいんだろう…と思ってた」
申し訳ないとは思うんですけどねぇ…
「私は人でなしの娘だな…おまけに礼儀知らずだし」という気持ちがどんどん大きくなっていきました。
1万文字チャレンジが途中でうまくいかなくなったり、目的を見失いそうになったのも重なり、鬱になってしまったんです。
私は悩みすぎると、孤独に引きこもる癖がありまして。
別に誰に距離されてるわけでもないのに、勝手に一人でどんどん孤独になってしまうんですよね。
罪悪感の内容も、最初は実家に帰って手伝いができないことと親戚に電話できないことだけだったのに、どんどん増えていきました。
「だいたい何で自分は、親兄弟親戚とまともに付き合えないんだろう」
「歳とってもこのままで、一人孤独に寂しく死なないといけないんだろうな」
「兄もいとこたちも、みんな結婚して子どもも産んで離婚もしてない。自分だけ”ふつう”のルートからはみ出てる。その上、親族と仲良くできなくて疎遠になってるのも私だけ。何でこんなふうになるんだろう」
「やっぱり、自分は迷惑な存在なんだろうな。生まれなかったらよかったのかもしれない」
そこへ、母がLINEで火傷の患部の写真を送ってきたりもして…(いや、悪気ないの知ってるけど笑)
どんどん心も身体も重くなって寝込みそうになっていたとき。
「おい!どこまで深刻になるねん。大丈夫か!!!」
自分でそう思い、起き上がりました(笑)
「まずは自分のことをちゃんとしないと」と思い直した
自分の奥底から、そういう声がした気がした。
まぁ、チャネリングするときもよく自分の奥底に向かって本音を尋ねたりしてるので。
私にとってはよくあることなんですよね(笑)
「隠極まれば陽に転ずる」、大鬱になるだけなって回復してきたのかもしれません。
実家まで遠すぎるのも、すぐに体調崩すのも。
ここと京都じゃ気温が違いすぎることもみんな知ってる。
誰も言葉にして責める人はいない。来てくれとも言われてない。
まぁ、正直母や助けてくれている親戚からは「なぜ実の娘なのに…」というエネルギーは感じなくもないですが。
でも、行けないし行きたくないのです。
ここで、先ほどの『逃げたい娘 諦めない母(幻冬舎)』をもう一度開きました。
母との関係に悩む娘の話を聞いていると、必ずといっていいほど出てくるのが「母が弱さを見せたときに強い罪悪感にさいなまれる」という感情です。娘が大人になればなるほど、母は年を取っていくもの。その過程で母の心身が弱っていくのを感じ取った瞬間、弱らせたのは自分なのではないかという自責の念に駆られる人が多いようです。
(中略)
結局のところ、母の不調は母の問題ですし、娘の不調は娘の問題であり、誰もせいでもないのです。(本文より)
そして、「母の体調の悪さを心配はしても、自分のせいではない」という態度を貫くことについてこのようにも書かれています。
娘がこうした毅然とした態度を取ることに対して、非情だという人もいるでしょう。しかし、非常になるということは、母を見捨てることではありません。むしろひとりの人間として尊重していることの表れです。娘として、見守る以外どうしようもできないことだってあるのです。
(中略)
母から「やさしくない」と責められるのなら、心の中で「私、やさしい娘じゃありません」と宣言しましょう。(本文より)
今回のことは、突発的な事故なのでこの部分に書かれている状況とは違うかもしれません。
でも、私が何を恐れて鬱になっていたかというと「自分が悪者になること」。
多少の状況の違いは関係ない。
「母さん、私冷たい娘です」と真っすぐな気持ちで思いました。
「ごめん」という言葉はつけずに。
そしてその後、母には「最近、こちらも調子が悪い」と伝えました。
母のために動いてくれている親戚には、電話はしないけれど、お盆にお礼の贈り物で感謝を伝えることにしました。
私は、本ブログの共依存体験談を「家族それぞれの落とし所があり、正解はない」という姿勢で書いています。
やっぱり、私の出した答えはいいのか悪いのかわかりません。
でも、共依存を抜け出したときより一段上のレベルで、母娘間の呪縛から抜け出したのかもしれないと思います。
翌朝、ご先祖様供養していて感じたこと
朝晩、ご先祖様にご挨拶や今日のことを話す時間をつくってるんですけどね。
特に、母方の祖父は生前「家族が集まることや助け合うように」と口を酸っぱくして言っていました。
「じいちゃんは、怒るだろうな…」と一瞬思いました。
でも、祖父母に呼びかけたとき、責められるようなものは何も感じませんでした。
「そういうこと(家族なのに仲良くできないとか難しいこと)は、ワシらには分からん。
でも仕方がないわなぁ。それならそれで、自分で責任とって生きていくしかなぁ」という雰囲気なのかなと(笑)
私は、ASDもあって昔から、お正月とかにみんなで集まってもひとりでいたがる子どもでした。
たとえ知っている親戚ばかりだとしても、いつも静かな家に知らない人がたくさんいる状況が落ち着かなかったんです。
障害の診断は44歳のとき。
子どものころは、母ももちろん障害があるとか知らない。
何とか私を怒ったり宥めたりして、みんなと遊んだり交流させようと必死でした。
あと、スピリチュアルな世界に入った後「みんなにわからないことがわかるようになってしまったこと」も疎外感が深まる原因になりました。
普段明るい人に対しても、そのエネルギーを見て「こわい…」と距離を置きたくなることがあるんです。
誰にも言えない(笑)
私がおかしいのか、みんながおかしいのかは分かりません。
私も自分のことを、まぁまぁなクセ者と自覚してますし(笑)
でも実際にそういうことがあるんですよね。仕方ない。
家族と疎遠でも人生終わるってわけじゃない
…といった具合で、今回のことで「無理はやめよう」と思いました。
人と会いたくないし、大勢とワイワイするのとか落ち着かないし、なんか人にはわからないもの見えてしまうし、人一倍エネルギーに敏感だしで「今からふつうに親戚付き合いするのは現実的じゃない…いや、むしろ無理ゲーでは??」と。
今、実際ご近所さんくらいしか顔見知りの人がいなくて、誰とも会わずにひたすら家にこもって文章書いてばっかりな生活で友達もいませんが、困ったら最低限のことは役所の人が助けてくれてます。
SNSでつながりのある、同じ生活保護受給者の人たちは家族との繋がりが希薄な人の方が多い。
でも、みんな毎日元気で無事です。
別に「家族と疎遠でも人生終わる」ってことはない。
さも「終わる」かのように思い込んでたけど(笑)
将来が不安なら、ひとりでも心配なく過ごせる準備を今からすることもできる。
共依存が終わってしばらくは、家族との交流も増えて「これから、孤独な人生は終わるんだな」と思ってましたが、違った(笑)
人間て、根っこの部分は変わらないんでね…
でも、そういう自分の特性と心地よい生活、そしてそれを自分の責任でやっていく決心ができたと思います。
ちなみに、さっき買い物行ったんですけどね。
頭の中に、また今回罪悪感から抜け出したときに聞こえたのと似た声がしました。
「帰らないから、思い切りやれよ」
親の手伝いをしに帰らない、という選択をしたのなら、その分今やっていることを後悔しないところまで本気でやれ、ということですね。
「やさしい娘」を脱して「しあわせな娘」になりましょう。
『逃げたい娘 諦めない母(幻冬舎)』より
母娘の関係といい、家族との関係といい、生き方自体も、これから新しくなっていく気がしています。